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2019/11/29 大嘗祭の建物見学してきました
2019.11.29
1970年工経卒 佐々木健兒
〔一日目〕
11月24日(日)に、
大嘗祭(だいじょうさい)の建物見学をしてきました
大嘗祭は、日本の天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事です。
新天皇が即位した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食するものです。大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地祇に感謝し、また祈念することです。
大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮といい、これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきましたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになりました。
そして、大嘗祭が行われた大嘗宮が一般公開されました。
今回の旅行は、翌日のゴルフが目的でしたが、家内から「もう見ることはできないから、見て来んさい!」と言われ、見に行きました。
見学者は多かったですが、カープチケットの抽選券をもらうために並んだ私にとっては、驚くほど多い人数ではありませんでした。
ただ、写真を撮る人は多く、そのために進行が遅くなったかと思います。
でも、通路の中央で写真を撮っている人は少なく、ほとんどの人は通路の端で撮っていました。
「案内図」 「参観経路」 「大嘗宮について」
〔大嘗祭の建物見学〕
〔二日目〕
二日目は富士山を見ながらゴルフをしてきました。
大学時代のバレー部の仲間に合って、富士山の見える足柄カントリー倶楽部でゴルフをしました。
みんなは毎月1回やっているのですが、私は年に2回仲間に入れてもらっています。
行く前の天気予報では雨だったのですが、行いが良かったのか快晴で、富士山がきれいに見えました。
富士山は一日中傘を被っていました。
〔富士山を背景に写真撮影〕 〔傘を被った富士山はきれいでした〕
〔三日目〕
三日目は、学生時代に住んでいたところ、よく遊びに行っていたところ等、歩いて回りました。
まず最初に芝浦校舎(田町)に行きました。
連絡もせず校友会本部に立ち寄り、依田事務局長とお話をさせて頂きました。
そして、事務の方にカープの応援をお願いした後、自分の住んだことのある浦和に行きました。
自分の住んでいたところの面影は全くなく、確かこの辺だったな!という感じでした。
それから、たまり場であった北浦和の喫茶店、毎日のように通った大宮のパチンコ店に行きましたが、自分の記憶がなくなっており、その建物を突き止めることはできませんでした。
最後に大宮キャンパスに行きました。
当時は駅から学校が見えていたのですが、今では住宅が立ち並んでおり、スマホのGoogleMapsを見ながら学校まで歩いて行きました。
学校も当時と比べると大きく変わっており、入っていったところの石段が当時と変わっていないと思われるくらいでした。
〔当時住んでいたと思われる付近〕 〔この景色は当時と変わっていません〕
〔ここで勉強しました??〕 〔時々この森に行き、癒されました〕
今回の一人旅、当初の天気予報では三日間とも雨となっていましたが、ほとんど雨に合うこともなく快適な旅になりました。
2019/10/09 西日本最高峰の石鎚山に登ってきました
2019.10.17
1974年建築卒 川本勝一
10月9日(水)に、西日本最高峰の石鎚山に登ってきました。
自宅を4時に出発、しまなみ海道・今治小松自動車道(伊予小松IC)と通って6時40分に西之川登山口到着、登山開始
頂上直前の一ノ鎖33m、二ノ鎖65m並びに3ノ鎖68mは恐怖の連続だった。鎖場は殆ど垂直面で足の置き場所に苦戦し、ほとんど腕の力で登らざるをえなかった。
土小屋からゴール西之川登山口までの2時間(6.9㎞)は全くの一人旅、山道は高木に囲まれうす暗く、足元も笹竹で分かり難く、その上、往路のスタートの時に手に持ってたはずの地図を急登でいきなり失くし、腕時計のナビが唯一ガイドになった。
2019/08/26~27 北アルプスの焼岳に登ってきました
2019.08.31
1974年建築卒 川本勝一
8月26日(月)~27日(火)に、北アルプスの焼岳に登ってきました。
8月26日未明の4時48分福山駅を出発し、11時58分帝国ホテル前に到着、休む間もなく登山開始しました。
帝国ホテル前でバス下車後、休む間もなく、本日の目的地、焼岳小屋へ向いました。
険しく滑りやすい岩肌の連続で、正に登攀にふさわしい通常の歩掛りでは計り知れない緊張と感動の登山になりました。
木々・クマザサ等の原生林に覆われ景観を味わう余裕は無く、ひたすら登る事に集中でした。
やっとの思いで小屋に着き、小屋人から「今日はゆったりと1人1畳で寝れます」の言葉に安堵しました。
小屋近くの展望台へ向い、ご来光に安全祈願しました。
北峰はこのルート最大の山場と言える連続する急坂ではあったが、展望が良いし山頂まで残り30分間は立ち止まっては景色を眺める繰り返し。
山頂直下の噴煙の間から見える火口湖は感動的なコバルト色、黄色の硫黄が岩に付着するくらいの大迫力。しかも、噴煙を上げている場所や崩落の跡などの横を登山道が通っていることにも驚き。
頂上では同行2人から360°見渡せる北アルプス名山を詳しく紹介して頂きましたが、それもその筈ご両人はここから眺望の山々を全て登頂されていました。
今回が初めての私にとっては羨ましすぎて悔しい限りですが、感動!
観光スポット河童橋の目の前にそびえる穂高連峰に魅了されながら、次回の登頂の目標が出来た感があります。
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川本さんは地元福山の里山、蔵王山に登るのが日課となっています。
既に、次の登山の計画を立て、そのトレーニングも兼ねています。
2019/07/07 大山弥山に登ってきました
2019.07.10
1974年建築卒 川本勝一
7月7日(日)に、中国地方最高峰の大山弥山に登ってきました。
前日の7月6日(土)10時半に自宅を出発し、鳥取市内で一泊し、翌日登頂しました。
2019/04/16 高尾山に登ってきました!
2019.04.19
1970年工経卒 佐々木健児
4月16日に、東京都八王子市にある標高599mの山、高尾山に登ってきました。
前日(4/15)富士山の見える御殿場(足柄森林CC)で大学時代の仲間とゴルフをしました。
スコアは天文学的数値となり、恥ずかしくて言えませんが、快晴の中、富士山もよく見え、気持ちの良い一日を過ごしました。
翌日は時間があり、5月19日に広島支部で「春のハイキング登山」があることから、その前段階として高尾山に行きました。
高尾山では最後の階段がきつく、何回も休んでやっと登りました。弥山はどうなることやら!
〔大学時代のバレー部の仲間と〕 〔富士山〕
〔登山コース〕
〔山頂〕 〔遠足日和、山頂には沢山の小学生がいました〕
〔高尾山から観た富士山〕 〔吊り橋〕
2019/01/26 残念!「東鳳翩山~西鳳翩山縦走」中止
2019.01.27
1974年建築卒 川本勝一
1/26予定の東鳳翩山~西鳳翩山縦走は残念ながら雪と雷で取止めにしました。
当日は予報通り早朝から雪になりましたが、予定時間前に錦鶏湖グランド駐車場へ向いました。
駐車場には既に積雪があり、辺りは雪で真っ白な状況でしたが、これも貴重な経験が出来ると前向きな気持ちでいました。
ところが、車から降りると同時に稲光と雷の爆音のお出迎え!
暗雲が立ち込める気配を感じながらでしたが、それでも身支度をしていたらまたまた、続いて雷がありました。
これには取止めの決断をせざるを得ませんでした。
ただでさえ、厳しい山行を覚悟しておりましたが、この気象条件には恐怖を感じました。
このまま帰るのは悔しいので、当社施工中の2現場を視察しました。
〔計画を立て現地まで行ったのですが・・・残念〕
〔暗雲が立ち込める気配〕
〔街中も怪しい曇り空〕
〔当社施工中の2現場〕
2019/01/07 白木山に登ってきました
2019.01.07
1974年建築卒 川本勝一
昨年11月30日(土)に、広島市可部町と白木町との境界にそびえる標高889.3 mの白木山(しらきやま)に登ってきました。
メンバーは広島箙会の菅沼康光さん、板垣寛さんと自分の3名で登りました。
山頂からは広島市内、四国山地、中国山地を360度の展望が広がる絶景を満喫しながら、昼食をとりました。
この菅沼さんのスケッチブックに残された無線塔、山の景色が山道に迷った我々を救ってくれました。
2018/12/26 三回の人生の岐路
2018.12.26
1974年建築卒 川本勝一
*この記事は、芝浦工業大学建築会「卒業生だより」に掲載されました
「三回の人生の岐路」 1974年安藤建設(現 安藤・ハザマ)へ入社しサラリーマン生活の第一歩を踏み出しました。
爾来、東京本社・広島支店建築部・営業部・広島支店長・執行役員大阪支店支店長・顧問等歴任し2014年3月、40年に亘るサラリーマン生活に幕を下ろし、現在は郷里の広島県福山市に居を構え、晴耕雨読の生活を送っています。
この年まで紆余曲折ありながらも,大過なく努めてまいりましたが、「三回の人生の岐路」というべき時にお世話になったお三方を、ご紹介させていただきます。
一つ目は大学4年時、当時枝広研究室で枝広助手から「今頃になって、どーしょんなら・・・東京では就職せんゆうてようたろうが・・就職先を調べちゃるけーはよーせにゃー」強烈な広島弁でした。
実は長男という事情から卒業後は郷里広島へ帰る予定をしておりました。先輩から「東京で少し仕事をして帰っても遅くはないぞ」と言われて、急遽方針を転換し就職先をお願いした次第です。
この時先生からご紹介頂いたのは、翌日が会社訪問の最終の日だった安藤建設だったのです。早速成績証明書を持参して会社を訪問しましたが、人事担当者から「芝浦工大建築学科からは既に3名の学校推薦者があり、ましてこの成績ではちょっとどうかな・・・・でも剣道部の主将ということであれば、取り敢えず学科試験は受けて下さい。」なんとか筆記試験に合格し、二次試験では一人だけが学ラン姿の面接になりました。
枝広先生の最近の広島弁は色あせてきましたが、この頃の広島弁には菅原文太なみの凄味がありました。
この時のご指導なくて今日の私はありません。
二つ目は入社6年の時です。
時の上司から「俺の目の前では君を退職させない。三度目の退職願いには、俺もいささか根負けした。広島支店へ転勤出来るように掛け合うから考え直せ!」この頃は(江戸者)の妻と結婚し、二人目の子供を身籠り、仕事も面白く、公私共に順風満帆な生活を送っていましたが、突然父が病に倒れました。長男モードにスイッチが入りました。
帰郷して親父の面倒を見よう。そう私は決心しましたが、この上司は退職願いの受け取りを拒否され、人事部へ熱心に働きかけて頂き、最終的には慰留され広島支店へ転勤となりました。
その後この上司は常務へと昇進され将来を嘱望されていましたが、病気で生涯を閉じられたのは痛恨の極みでありました。
三つ目は、私が44歳で、大型工事の統括所長として意気に感じていた時、時の支店長から「そろそろ現場を卒業して、営業をやってもらおう」という未知の営業職への配属命令でした。
悩みました。まさに青天の霹靂で当時の落胆は今でも忘れられません。
それから13年の経過後、私が広島支店長に就任した際,いの一番にあの支店長から「営業転属に際し、一時期私を恨んでいたみたいだが、今回の発令で俺の夢がかなった。俺もうれしい!」と、電話の向こうで涙されておりました。人生の機微に触れた思いで有りました。
これまでの拙い人生を振り返ってみるとき、自分自身の鍛練もさることながら、周辺の人達によって人生は変わるものだとしみじみ思うとともに感謝する今日この頃です。
余談ですが、既に60周年を迎えた本学建築学科同様に先人が築いた素晴らしい歴史を四国遍路でも感じました。校友会広島支部のホームページで紹介していますので一読して頂ければ幸いです。
「2018/06/17 34日間、弘法大師と四国八十八ケ所巡礼の旅 」
2018/12/26 プロ野球ドラフトを終えて
2018.10.26
1970年工経卒 佐々木健兒
10月25日に2018年ドラフト会議が終了し、注目の大阪桐蔭・根尾は中日、報徳学園・小園は広島が交渉権を獲得しました。
われら広島東洋カープは育成選手1名を含め、8名を指名しました。報徳学園・小園は4球団から指名がありましたが、見事カープが1位指名で獲得することができました。
今回のドラフト指名選手の中に、注目すべき選手に、
正随優弥(亜細亜大)がいます。
彼の出身中学は広島市立段原中学校でお父さんは㈱安藤・間に勤務されています。
広島支部にも、㈱安藤・間に勤務されていた川本勝一さん(建築1974卒)や現在勤務されている青木茂さん(建築1989卒)、永山文則さん(建工1990卒)、寺本裕さん(デザイン2017卒)がおられ、非常に身近な方からカープの選手が生まれようとしています。
彼は、中学校時代は広島鯉城リトルシニアというチームでプレーをし、最速140㌔直球を持つエースとして活躍していました。
当時から投打両面の資質で注目されていました。
中田翔に憧れて大阪桐蔭に進学し、大阪桐蔭進学後からプロを目指して野手に専念しました。
大阪桐蔭では期待されながら右足首骨折で出遅れ、2年夏秋の大阪大会を出場出来ずに終え、3年春の大会(近畿優勝)になって4番・中堅手レギュラーとして公式戦デビューしました。
初戦・桜宮戦の初打席で中前適時打を放ち、準決・PL戦で先制の2点二塁打を記録しました。
決勝・履正社戦では永谷暢章から左翼への同点タイムリーを放っています。
近畿初戦・立命宇治戦でサード強襲適時打、決勝・報徳戦で同点の二塁打を放ちました。
3年時夏に4番・一塁手(予選2回戦まで中堅)として2年ぶりの日本一を経験しました。
亜大進学後は1年春からリーグ戦に出場。
主に4、7番・DHとして9試合にスタメン起用され、32打数で11安打、打率.344点3の実績を残しています。
翌2年春(7番ライト)に打率.323(13位)本1点4で初の規定打席到達を達成。
8季で計87戦(7番22、1番20、4番14)に出場し、1部通算68安打、打率.260本9をマークしました。
1年秋の専修大2回戦で高橋礼から左翼スタンドへのリーグ戦1号2ランを記録。
2年春のリーグ戦で平間、鍬原から左中間ソロ、翌3年春の最終戦で4安打2発を放っています。
初の十傑入りを遂げた3年秋(1番・中堅手)にベストナインのタイトルを初受賞。
ケガから復帰した2カード目からスタメンを務め、特大ソロを含む2発、打率.333点6を記録しました。
全国大会には2年春の第65回全日本大学野球選手権(8強で敗退)に出場しています。
(亜大が中大に先勝 正随2安打2打)
〔正随 優弥〕
守備 外野手
身長・体重 180cm・94kg
生年月日 1996年08月31日
所 属 亜大
球 歴 大阪桐蔭高 - 亜大
出身地 広島県
投・打 右・右
今後のカープを背負っていく
正随 優弥選手をみんなで応援しましょう。
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